DAY10

夕焼け空にカモメの声がしていた。

ヤグヤグが探索に小屋を留守にし、がらんとした漁師小屋の中。
古い木目に染み込んだ潮の香りが、ただ気だるげに部屋を満たしていた。



彼の作業台の周りの床には、相変わらずに散らされた瓶と、
引っ掛けてばら撒いたように資料と書物が散乱したままになっていた。

ひとり残されて、助手の男は番をしながら部屋を片付ける。




散らばる瓶をまとめ、書物と資料を拾い上げ束ねて行く途中にふと、
床に落ちる水棲生物の図解が目に入る。

しばらくの間捲られた形跡がなく、薄く埃を纏うそれを
なんの気なしに拾い上げ、そこへ人の形をとる魚がないかめくってみる。



先日に見た奇妙な魚の事を、昨晩彼に伝えたのだ。
継ぎ接ぎのように異なる魚の特徴と、未発達な少女の形を取る魚の事を。



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『――そうか。』

彼は、そうと一言だけこぼしたきり何も語らず、それからその話は互いにしていない。


手に取った書記の中には、解り切っていた事といえその姿を見る事はなく。
やがてその本を作業台へと戻した。


この土地の生態系は他に類を見ず、解明の進んでいないと人に聞く。
きっと、この海の原生生物の一つなのだろうと。

そう思いながら床へ散らばる資料の束を纏めあげて行くと
やがて書類の束の下に埋もれていた、古い手記を一冊見つけた。



拾い上げようとして、表紙に書き込まれた女性の字にふいに手を止める。


――シスカ・ルコルコ



それはかつて研究者だったヤグヤグが各地を巡り旅を共にした――
冒険家だった妻の名前。


装丁を見るに、どうやらそれは日誌のようだった。
綴られるのはおそらく、彼の失ったいつかの日々の吐息の残滓。



多少の迷いが指先を揺らして。
それから、ゆっくりとそれを拾い上げて表紙をめくる。



細く、丁寧な文字で綴られるのは彼女の日々の探索の成果、
地域の気候や植物のスケッチ。
フィールドワークの成果を綴る字が心なしか踊るようにして
冒険家としての彼女の姿を映しているようだった。


それから、時には他愛もなく、その日の夕食や、助手のこと。
そして、何度も彼――ヤグヤグの事が綴られていた。

その些細な言葉の一つずつに息づくのは、彼女が確かそこに生きていた痕跡。


手記を読み進めてしばらく、
いつ頃からか、手記の日付が空くようになった事に気がついた。

その頃から要所に、
どこか体の不調を匂わせるような言葉が目立つようになっていた。



彼女は、最期体を悪くしていたのだろうかと思いをはせ
ページをめくり、綴られる字を斜めに読み進めれば。
やがてひとつ、一度握りつぶしたように皴の畳まれたページを見つける。



――それはまるで、ページごと破り捨てようとして。
それから、やはり出来なくて。
そうして畳まれたような痕跡だった。



そこに綴られる言葉へ、ゆっくりと目を通す。



   ――そろそろ隠し続けるのもつらくなってきたころ。

   軽い視察探査なら続けられるものと思っていた。
   これ以上フィールドに繰り出すことは自覚するにさえ体に負担が大きい。

   心労を掛けさせまいと黙っているのに
   それがもとで彼に気を掛けさせては意味がない。

   冒険家として私がフィールドに出向くのは、次の航海で最後にしよう。

   ムロジャフ氏にはまだ見せていない物が有る。検証をしたいことがある。
   せめて、それを終えるまでは。床に就くことは悔やまれてならないから。


   ――三ヵ月になる。医師には経過は順調だと診断された。
   私の胎にはいま、ムロジャフ氏の子がある。

   打ち明けたのならどれほど驚かれる事だろうか。
   船上で伝えることだけはやめておこうと思う。
   驚き、喜ぶだろう彼が海へと落ちては溜ったものではない――



――日誌はその日付で、未だページを残したまま終えられている。


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ハンス
「……。」

手記に目を通し終え、しばらくの間手を止めていた。
おそらく、彼女の残した最後の手記。そこに最後にすると綴った航海の最中
彼女は姿を消したのだろう。


畳まれた皺はきっと、これを読み知ったヤグヤグが無念のままに残した物だ。

やがて、ゆっくりとページを閉じ、作業台へと静かに置いた。

 
ドアの開く音がして、振り返る。
疲れた様子でそこに立つヤグヤグの姿に、ふわりと笑みを向ける。


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ハンス
「お戻りになりましたか。ムロジャフ博士。 」
それは、今のハンスが彼にできる精一杯だった。

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ハンス
「さぞお疲れの事でしょう。食事の準備を致しましょうか。 」



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ヤグヤグ
「……何か、あったのか。 」

様子に何かを察するのか。ぼそりとそう、尋ねた。


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ハンス
「いいえ。
……ただ、お待ちしていた物ですから。」

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ヤグヤグ
「……。
そうか。」


いくらか不審な眼差しを向け、ヤグヤグは背を丸め、
自身の部屋へと消えて行った。





  • 最終更新:2017-03-12 02:11:59

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