DAY21




誰もいない部屋に、時計が針を刻む音だけがやけに響いていた。


ヤグヤグが拠点に戻ったのは今から短針ふたつほど前の頃。
小屋に戻るや、この日も彼は自室に鍵をかけ中に閉じこもってしまい。
そうして、部屋に取り残されるのは針の音と遠くから届く潮の香りだけだった。



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ハンス
「……。」


ふう、とため息をひとつ落とす。

彼が深い海からあの魚を連れて帰って、それからという物
最近はヤグヤグともろくに顔を合わせていないような気がする。



少女に似た形を身に取る、つぎはぎ合わせの奇妙な鰭をした魚。
それは、明かりを嫌うのだと彼が言った。
暗く締め切られた部屋、水槽の中に泳ぐその魚と、以前彼の腕に見えた傷痕に、
柄も言われない胸騒ぎを覚えていた。


自身にはあの魚が、どうにもまともな生物であるようには思えなかったのだ。
また、それを視察するヤグヤグの様子に、いくらか異様なまなざしを感じていた。
彼は、おそらく。あの魚の中にあくる日の面影を見ている。


それは、他でもなく。いつかの日に亡くした妻の姿なのだろう──
まるで、人を魅惑するといわれる人魚の術中に居るように、
そこへ見える朧に迷い込んでいるのだ。



窓の外は暗く、まるで世界が抜け落ちてしまったかのように何も見えなかった。
ガラスに映る部屋の中を眺め長く息をついた頃。


──にわかに、部屋の向こうから大きな物音がした。

それは、何かガラスの割れるような音と、水の音。
重たく物をなぎ倒す乱暴な音と、小さなうめき声。



只事ではないようなその物音に肩を跳ねさせ、
咄嗟に鍵のかかった部屋の前に飛びつき、ドアを叩く。


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ハンス
「ムロジャフ博士!如何なされました!」


中に呼びかけるが、返る声は無く。
わずかな水音だけが扉の向こうから響いていた。


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ハンス
「──っ……。」

ためらうより早くに、ドアに肩をぶつける。

古いドアだった。それを破ることは難しくはなかった。
数回、体を当てると古い鍵がいびつな音を立てて外れ、ゆっくりとドアが開く。



窓の外に似て暗い部屋に、明かりがさせば、
中央に置かれた水槽が割れ、床の上が水で浸されているのが見えた。


割れた水槽の陰に、ヤグヤグが倒れているのが見え、部屋の中に足を踏み込む。

床を浸す水に靴先が触れて音を立てるのと、同時。



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ハンス
「うわっ……!」


何者かに飛びつかれて、体が横に攫われた。
踏みとどまろうと張った足先が水に滑って、そのまま台の方へと体勢を崩す。


水にぬれた細いものが首筋に絡みつく感覚がした。

鼻先すぐにまで迫ったその姿は影と溶け合い視界にとらえきれなかったが
割れた水槽をちらりと見れば、これが恐らくあの魚であることを知る。


必死になりそれをひきはがそうとするが、
思いのほか強い力で触碗を巻き付けられて離れない。

左の腕を伸ばし、助けを乞うように台上を探れば
やがて指先がナイフの柄を見つける。

すぐさまそれを手に納め、自身に張り付く影へと向けて突き立てた。



まるで、イルカの遠鳴のような甲高い音を上げて
自身にまとわりついたそれは、絡めた触碗を引きはがし飛びのく。
はげしくのたうつようにしながら、その影が扉から差す明かりの元へと投げ出される。


明かりのもとにさらされて見えたのは
少女のような上体と、薄く水を透き深い海の者を思わせる魚の尾鰭。
その様態は、以前よりも一層に輪郭を強く人の姿を模っていた。



きぃ──と、
女性の悲鳴に似て魚が再び叫びをあげると、出鱈目な動きで床を駆けずり回る。
まるで錯乱したかのように棚や壁面に体を打ち付けながら、
やがて勢いよく窓を破り、夜影の中へと姿を消してゆく。


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ハンス
「…………、」


その様子を、呆気にとられて見ていることしかできなかった。
少しの間呼吸を忘れて、思い出すように深く息を吸う。


水槽の陰で倒れるヤグヤグの元へと寄り、静かに体を起こして様子を伺う。
首筋に浅く、咬傷のようなものがついていた。

それは、おそらくあの魚に噛まれた傷なのだろう。



ほどなくして、ヤグヤグが朦朧とした様子で目を覚ますと、
彼は割れた水槽をみてああ、と小さな悲鳴を上げた。

慌てた様子で体を起こし、ふらつきに膝を崩す様子をみてその肩を押さえつける。


彼の様子に落ち着くようにと、そう声をかけることがやっとだった。


割れた窓から、ぬるく吹く夜風の舞い込んで、顔を上げる。
逃げ出した水槽の中の魚を思い返しながら、
ただ立ち尽くすように夜影の先を見つめていた。






  • 最終更新:2017-08-05 20:36:19

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