DAY28


日暮れ前。
またいつかのように。ハンスとヤグヤグは二人、船を出す。


静かに凪ぎ気だるく揺れる船の上で
いくつもの印の付いた近域の海図を握り、
波の様子に細かく気を配るヤグヤグの横顔をちらりと眺めては
きっと、何も起こらないようにと。

助手の男は心のうちに深く祈る。



水槽の人魚が部屋から去って、いくらか安堵する気持ちがあった。

彼が追わんとするその鰭が、何処かへ消えたわけではない事くらい
知れたつもりでいたはずだった。


先の晩に浜辺の人魚が自身を海へと引きずり込もうとしたあの時
人魚の姿は消えた訳ではないと、まるで夢から引き戻されたように思い出させられた。
それはただ、この海に身を隠しただけ。


どうか、その姿が再びに現れることの無いようにと、
広大な海の懐で、今は願うことしか出来なかった。




日が暮れかけていた。


夕刻をすぎれば、海にいるのは危険だと。
そう口に出して、煙たがれることは承知だった。


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ハンス
「……月が出る前に帰りましょう。」

それでも、出来ることはそう、彼に声をかける事しかないのだ。


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ヤグヤグ
「いや──」


ヤグヤグがその声に否定を返そうとして、ふと遠くを見る。


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ハンス
「……いかがなさいましたか。」

その様子にふと、自身も波の遠くを見ては、不安げに声をかけ


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ヤグヤグ
「──……声だ。」

その言葉に、はっとする。


耳を澄ませる。
それは、波音のかすか遠くの泡沫から
女性の歌うのに似た声がしたのだ。




さあ、と不安に胸が寒くなる。

風の笛鳴りのようなそれは
イルカの遠泣きのようなそれは
昨日月の影に腰を掛けていたあの人魚の声と同じ。


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ハンス
「ムロジャフ博士……!」

名を呼んだ瞳には、その声は届かず。彼はただ遠くの音を探り波を見ていた。


まるで、時計の針を早めたように。
辺りに雲がかかり、夜が足を早めるのを感じた。


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ハンス
「ムロジャフ博士!戻りましょう!
ここにいては危ない──」


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ヤグヤグ
「馬鹿を言うな!何のためにここに来た、止めないでくれ!」


雨もなく飛沫を返し荒れ始める波に掴んだヤグヤグの腕が、振り払われて

遠くに水に濡れた人魚の影が差す。



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ハンス
「────……っ」

ハンスが今一度彼の名を叫ぶのと──


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ヤグヤグ
「──────ッッ!!」


──ヤグヤグの唇が妻の名の音に揺れるのが同時だった。


揺れる波にさらわれて人魚の鰭が手招きのように濡れて
身を乗り出したヤグヤグの裾が風に揺らいだ



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ハンス
「ああっ──」

彼の呼んだ名に一時の身動きが遅れて。
波へと落ちるその裾を掴み損ねる。


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「───────」


黒く底を深める海へとヤグヤグの身が落ちて。
波間の人魚が笑った気がした。


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ハンス
「──っ、」


逃したヤグヤグの裾の端から、ころりと宝飾石の原石のような物がこぼれて
波間に落ちたそれを海の底へと逃さないようにどうにか捕まえる。


石の内から波の境界のように鈍く虹を返すそれが、
おそらくは探索協会から彼の支給されたスキルストーンなのだろうと思いに結び、掌に納め咄嗟に強く念じる。


海中に足を踏まない物を水辺へ誘い、海底を照らす石。

手にした事も、扱いの教授も受けていなかったが
縋る様にして底に祈りを投じると


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ハンス
「──うわっ!」


ガラスの割れるような、聴覚にも触れないほど小さな轟音が轟いて。
不可視の闇を薙ぐように波状の光が辺りに散った。


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「──……ッ!!!」


突如波間を強く照らされて人魚の金切り声が響いた。

放たれた光は閃光のように海を昼と照らして
にわかに訪れた嵐が、水を打つように沈んでいった。





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ハンス
「ムロジャフ博士……!!」


それを見届けるよりも早く懐に石を抱いて彼の落ちた場所へと飛び込む。


やがてすぐに、その姿を見つけて
夕闇の落ちかけた波間に、彼を引き上げる。


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ハンス
「ムロジャフ博士……
ムロジャフ博士!

……気を確かに。」



波の上に体を戻されて、大袈裟なように咳を吐くヤグヤグへ
正気であるように呼びかければ。


やがて、微睡みの抜けないような眼差しが
低くからぐるりとハンスを見上げる。


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ヤグヤグ
「…………。
……ハンス。」



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ヤグヤグ
「…………何故……
私を引き止めた……?」





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ハンス
「……え……。」



彼の零した問に、意識せず目を丸める。

先までの事が嘘のように凪いで穏やかな波の傍らに
取り残されるようにして船だけが浮いていて。

返答に返す言葉をついに見つけることが出来ずに


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ハンス
「…………本日は……
きっと、ゆっくりとお休みになられた方が宜しいでしょう……。」



そう、返すことだけがやっとだった。





  • 最終更新:2017-12-15 22:39:30

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