DAY29

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ハンス
「…………。」

閉じた自室のドアに背を預けたまま、
ハンスはただ立ち尽くして黙り込んでいた。




──先の晩


波間の人魚へ妻の名を呼んだヤグヤグに
あれは魔物だと言って聞かそうとして、ついに言う事ができなかった。
まだ遠い瞳がそれを聞いて、迷いのうちにある彼の逆上を誘うことが明らかだったから。


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ハンス
「──落ち着くことです。」


その晩には、そう言い聞かすことがやっと。



月の出てから間もないうちにヤグヤグは部屋に戻り
夜が明けるまでやけに長く音の無い晩が過ぎた。


自身が彼に出来るのは、
努めて穏やかに振る舞う事だけだった。


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ハンス
「おはようございます、ムロジャフ博士。
朝食の準備ができていますよ。」



朝日が差す頃に、いつもと変わらずに、穏やかに。
ただ穏やかに、部屋から出た彼に呼び掛けた。



ヤグヤグは何も答えず。
なにかを思案するように、うつむき加減に遠くを見ていた。



テーブルに置いた紅茶が、甘い香りを上げてしばらく。
ヤグヤグが、顔を上げずに唇を開いた。


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ヤグヤグ
「……ハンス。

お前は、もう街に降りろ。」



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ハンス
「えっ……」



静かに零されたその言葉に謂わずに声を閊えさせる。

遠くに飛ぶ鳥の声が風と共に過ぎて行って
穏やかな朝の時が止まる。



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ヤグヤグ
「……ハンス。
御前は何になりたい。


学士を志していたのでは無いのか?
それと言うのに、お前のしていることとはなんだ。
助手というのは、お前のしているような事か?
少しであれ、考えはしないのかね。」





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ハンス
「……ムロジャフ博士。
何を、おっしゃるのですか。」



静かに、しかし確かな声でこぼすヤグヤグへ、務めて平穏を装って言葉を返す。
ほほえみかけた表情はしかし、きっと歪んでいたことだろう。


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ヤグヤグ
「なあ。ハンス。
助手とは、助手の働きとはなんだ。
お前のしていることは、それではただの使用人だ。


知れている。それを強いているのは。
そうせざるに他をなくしているのは何者によることか。
私は、お前の在り方を、働きを責むのではない。」




それでも声を続ける彼の言葉を、聞きたくなかった。
それが、癇癪や冗談のたぐいではないことが声の色からも知れたから。




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ヤグヤグ
「……私は、今の既に研究者ではないよ。


お前がまだその道を志すつもりがわずかでもあるのなら
もうここを離れ、街へ降りる方がいい。

まだ成れる先のある、お前のような者でありながらそうするつもりであるのなら。
そんなもの、首でも釣ってしまうほうがよっぽど良い。
そうとは、思わんのか。それほどの思考さえ、私はお前から奪ったとでも言うかね。
…………ハンス。



御前は街へ降りろ。」





返す言葉に行き詰まり、長く時が横たわる。



自身、思いをしなかった訳ではない。
だが、それを彼の口から言われては、ごまかすことも出来ない。
おしまい、というやつだった。


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ハンス
「……少しばかり、考えさせてください。」


そうとだけようやくに吐き出すと、行き場をなくして、
逃げ出すようにして自室へと戻る。




それから、簡素な荷物おきの一角、ベッドの代わりに並べた木箱の部屋に一人。
彼が探索に出る時間になり、
高くなった陽にカーテンが揺れるのをいつまでも眺めていた。




──お前は街へ降りろ。




そう言った声が幾度も胸に落ちて。
並べた木箱の1つに手をかける。



その中には、自身がここへ来る際に持ち込んだ幾つかの荷物と共に
一冊のスクラップブックがしまわれていた。


やや古ぼけてはいたが、丁寧にスクラップされているのは
若い日のヤグヤグと、冒険家だった彼の妻シスカの記事。
それは、ハンスがまだ学生の頃。まるで少年誌の物語のように憧れ
切り抜き集めた足取りたち。



幼い頃から、学士に憧れていた。
思い返せば、それというよりも
彼らの姿に憧れていたのかもしれない。



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ハンス
「…………。」

スクラップブックを閉じて、荷物を軽く混ぜれば
革製のケースに収まったやや大ぶりのナイフが指先に当たる。


簡易な調理や、もしもの際にはフィールドワークに出ることを想定して
ここに持ち込んだもの。



それをシーツの上に逃して。
木箱の蓋を静かに閉めた。






  • 最終更新:2017-12-15 22:38:53

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