DAY30



月の雫が落ちて海には波が満ちていた。
静かに寄せる水の音に濡れて、夜影は暗くあたりを包む。



風のない夜の海、波に揺られて一隻の小舟が浮かぶ。

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ハンス
「……。」


その上で、1人遠くを眺めるのは
ヤグヤグの助手を務める男、ハンスだった。


船の上に置かれるのは真新しく初々しい折り目の強くついた海図。
その上にのせられたインクの軌跡はヤグヤグのつけたものを模した記号。



羅針盤に乗せられた銀色の針は鈍く月を返しながら静かに方角を指し示す。



静かな夜の海の上で遠くへ、近くへ。音もなく波の中を見渡すその傍らには
革製の鞘から抜かれたナイフが羅針盤の針に似て鈍い光を返していた。


波の間を見渡しながら静かに瞳の奥に思うのは、ヤグヤグが見る人魚の幻。


その幻に彼が見いだし追う影は人魚の「彼女」のことではない。
それは、いつか波に沈んで消えた遠い日の妻の面影に他ならない。



彼を今も捕えて惑わすのはきっと過ぎ去った日々の思い出とその再来への淡い希望。
彼はきっと、今も彼女がこの海の何処かに有ると信じてその幻に取り憑かれている。



その希望は、きっと妄執と名をつけるのに似つかわしい惑い。
その色を瞳の奥に覗くたびに心の奥のざわめく思いがしていた。



いつか研究者として海を進んだ彼の姿を
今も朧の底に沈め捕らえるのはきっとその妄執によるもの。


例え遠い先になろうとも、いつか彼の瞳に
自身が憧れていた、研究者の彼にあった輝きを取り戻したかった。
そうしてきっと、何時の時かその日が来ることを信じているのに違いない。

自身の願いは、おそらく彼の希望とどこかで似ている。


妻のいた日々がいつか戻る事への希望が彼の妄執なら
あくる日の姿が彼に戻ることへの希望が自信の妄執。


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ハンス
「……。」



心の底で淡く思いながら。
何も見えない夜の波へ瞳を凝らして、やがて浜へと船を向ける。

静かに寄せる波の中には、何も見つけることが出来なかった。
ため息を一つ、小舟を漕いで浜辺の小屋へと導を立てた。






明かりの消えた拠点の小屋の古びた扉を静かに押し開く。
音を立てぬようにと足を踏み入れて
小さなランタンの明かりにぎくりと背筋を跳ねさせる。


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ハンス
「……ムロジャフ博士、まだ、起きてらしたのですか?」


問いかけに、うつむく彼は顔を上げずに息をつく。


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ヤグヤグ
「ハンス。今、戻りか?
……こんな時間まで、何をしていた?」




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ハンス
「…………。
……私にも。

飲みたくなる気分の時ぐらい、あります。」




ごまかしにそう吐き出して。
ケースに入れたナイフを背に隠し逃げ出すようにして自室へ歩んだ。






  • 最終更新:2018-01-03 03:44:14

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