DAY32

静まり返る藍の波の上
明かりの消えた船がぽかりと一隻浮かんでいた。


そこに佇む影は、一つ。
まだ新しい海図の印の上に、小さな羅針盤を置いて、ハンスは深く息を吸い込む。


最後に人魚を見たのはこのあたりの領海だった。
あの人魚はまだ、この海に居るのだと信じて船を出すのは
あるところでは、ヤグヤグと同じ思いなのかもしれない。


傍らに置いた大ぶりのナイフにちらりと視線を送る。
思えせば、今に抱く決意は自身の平常の行動とは到底外れた事だった。

その他に手段を思い浮かべられずに
気が付けば、突き動かされるように海へと誘われていた。


それは自身もまた、人魚に惑わされているからなのかもしれないと
心の何処かで思い浮かべる。



明かりの消えた船を止めて、月を眺め幾度か呼吸を整え
おもむろにナイフに手を伸ばす。


伸ばした指先は冷えていて、
ためらいに手先がいくらか迷った。



海域の生態に知れないところが多い中、驚異なのは人魚の事だけではない。
危険を冒す事は避けたかったが、きっと、人魚を呼ぶにはそれが早いのだろう。

急ぐ気持ちがあった。
機を待ち船を浮かべるだけでは、きっと
ヤグヤグを人魚から引き離すのに間に合わない。

言い聞かせるようにしてナイフを握り直すと
左の袖をまくり、鈍い色の刃をそこへ滑らせた。




hns3.png
ハンス
「っ…………。」

鋭く熱い感覚が腕の表面を這い、なぞる。

月の明かりの中で、やがてにじみ滴る雫は黒く照らされて。
それを波の中へと落としこんだ。


人魚が欲するのは、他もなくその姿を模す為の血肉。
人魚は人を襲い食する魔物だ。
それなら、自身が餌となれば良い。

ぽたり、ぽたりと落ちる雫に意識を集めて
波間の奥にその姿が泳ぐのを待ち伏せる。





しばらくして、凪いでいたはずの海に不意に風が吹き
波が荒れはじめるのを感じ顔を上げる。

遠くの闇へと目を凝らし探せば
見えたその影に鼓動が早まる音がした。




sis2.png

「──……」


──人魚の姿が、そこにあった。




ゆらりと揺れたたずむ透いた鰭。
黒い大きな瞳が真っすぐにこちらを見つめるのを見ては
静かに呼吸を整える。


人魚は遠くの距離をゆっくりと揺蕩い、
それはいくらか警戒をしているように思えた。


今に姿を見失ったなら、次に遭遇するが何時になるか知れない。

まるで、子猫を呼び寄せるように、慎重に。
優しく。緩やかに。その影が近くまで来るのを待ち濡れた手を差しのばす。



やがて鰭をなびかせて、人魚の影が徐々に泳ぎ寄る。
ゆっくりだが、すなおにそれに誘われる彼女の姿は

すこしだけ。本当にすこしだけ、いとおしく思えた。



差し出した腕が、波に数回濡れて
今にも手の触れる近くにまでその鰭が寄せられる。


指先の触れるより近くまで、その影が近づいて
ぱくり、と彼女が唇を開く音がしたそのとき。




それを合図に、隠した右腕のナイフを人魚の背面から思い切り突き立てた。


sis1.png

「────!!!」





甲高くなる音は、悲鳴を上げる蒸気管の音に似て響いた。



海の中へ逃げ出す間を与えないように、ひっかけた柄を思い切り持ち上げて
薄く透くその体を船の上へと引きずり出す。


暴れ、腕に絡みつく髪の毛に似たクラゲの触碗を振りほどきながら
奥歯を噛み、引き抜いたナイフを今一度突き立てる。



hns1.png
ハンス
「っ……!!」


苦し気な声を上げて身をよじらせる人魚は、しかし
動きを弱らせる様子もなく依然激しく鰭を暴れさせる。

突き立てたナイフの、ぱっくりと開いた傷口が、徐々に刃を押し返すように
塞がってゆくのに気が付いて、小さく唸り声を上げる。




慌てるようにして再度刃を引き抜き、三度ナイフを突き立てようと
振りかぶった腕に、触碗が絡んで動きを遮る。

その触腕をナイフの刃で千切りながら振りほどけば
人魚が上体を跳ねさせて、こちらの首筋へ向かい口を開くのが見えた。



ひとくち息を吸い込み刃を構え直して。
腕を下ろそうと力を加えたその時に──




hns8.png
ハンス
「ぅ、ッ……!?」


背に鈍く、重い衝撃が突き立って
振り上げたナイフが、そのまま乾いた音を立てて船の中に落ちる。





sis2.png

「!」


背を打った衝撃に、前のめりに肘をついて倒れ
にわかに船を照らす明かりに、人魚がずるりと這い海へと逃げるのを脇目にとらえながら
どうにか身体に付き立った物を確かめる。


背から、わき腹をやや抜いて付き立つ物は
銀色をした、細い槍のようなもの──



──スピアフィッシングに使われる、簡易的な。しかし、しなやかな銛だった。



ぎくり、と肩が跳ねる。
それは、自身のよく知る彼の、海域の探索に持ち出されるはずの物──




hns7.png
ハンス
「……ムロジャフ……博士……。」



明かりを持ち、背後に立つ彼の名を呼んだ。



yagu4.png
ヤグヤグ
「…………。

ハンス。そこで、何をしている?」




帰る言葉に、頭の後ろが冷めるのを感じ振り向けば、
銛の放たれ空になった水中銃に。怒気の篭った瞳の色に。
思わず、あぁ、と息が漏れる。



しまった、と。
はじめに浮かんだのはそうだった。


それは、まだ人魚の惑いに取り憑かれたままの彼が
自身のせんとすることを知れば、何を起こすかを知れていたから。

怒りのこもったその目の色に
彼の正気が霧の奥に隠れ見えずにいることを知れたから。
最も恐れることの一つを、いまに引き当てたことを知ったから。





yagu3.png
ヤグヤグ
「……近頃に、隠れ独りで何をするかと思えば
やはりには、こんな所だ。」



わずか濡れた裾に震える声を引きずって、船上に現れた彼がこちらへと歩み寄る。
まだ向き直れずにいる背に冷え切った靴底が固く充てがわれ



hns8.png
ハンス
「あっぐ…………!」



背髄を伝い、激しい熱が体を抜ける。
からんと音を立てて転がった銛先に、わずか遅れて状況を知る。

それから、まるで風船の気が抜けてゆくように
ぽっかりと開いたそこから、力が急激に抜けて行く。



yagu3.png
ヤグヤグ
「……ハンス。

お前も。お前も結局はそうなのか。
私を愚弄する多くの者と。故郷の誰もと、お前も変わらん。

……お前も、お前もそうだ。」




震える腕が襟首をつかみ乱暴に引き上げて、
掠れそうな視界にヤグヤグの瞳が映る。


NoImage.png
ハンス
「……博、士……」



その瞳は危惧した通り、こちらの姿を捉えてはいない。



胸倉をつかむ細い指先が、やがて首筋に絡みつき
きゅう、と喉の奥が小さな空気笛のように鳴った。

体から抜け落ちてゆく酷い熱に浮かされて、添わせた指先に力がこもらない。


ヤグヤグの細い指先は、見た目から考えうるには当たらないほどに
強く、強く、のどを締め上げる。




下手をうった、と何度も思う。
鑑みれば、自身もいくらか冷静ではなかったのだろう。
手段を、行動を、急ぎすぎたのかもしれない。




yagu16.png
ヤグヤグ
「誰も、誰も同じだ!!

何故、私から彼女を奪う!!何故……彼女を奪おうとする!!
答えろ……!!答えろ、ハンス!!!



────答えろ!!!
                          」





頸を折らんとするほどの力に、抵抗もままならずに
喉の奥をかり、かり、と鳴らす事だけが精いっぱいだった。




どうか

どうか正気を




到底届くはずもない遠くで彼へと投げかける。



激しくなる波の喧騒と、揺れてぼやけてゆく視界に
やがて、頭の中がふわりと軽くなるのを感じた。

抵抗に喉元へと添えた指先が、ゆっくりと。
崩れるように離れて、落ちてゆく



濁り行く最後、霧の色をしたヤグヤグの瞳を見て
自身が伸ばした指先は、やはり。そこへとは届かなかったかと思い浮かんで──





NoImage.png

「──ぴぃーーーーーーーーー。」



高く、悲しい叫びがあがるのを聞いた。

それが人魚の声だとは、遅れて想う。
ぐらり、船が揺らされて波が高く攫った。




天も地も感覚から消えて無くなったころに、もう一度だけ、気が付いて。
冷え切った身体が、果ての無い藍色の底へと
ひどく緩やかに沈んでゆく事だけを感じた。






  • 最終更新:2018-02-05 01:12:34

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード