DAY34



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ハンス
「…………。」



潮風の音が届く古びた漁師小屋の部屋で、遠くを眺めて息をつく。

元より殺風景だった、荷部屋の中の自室は
多少広げた荷物をすべて片されて
輪をかけるようにして閑散としていた。

あまり多くはない荷物をスーツケースに丸め込み
ただ一人、疲れた吐息を吐きながら窓の遠くを眺める。



あのような事があっては、以前のようにここで過ごす訳にはもう、行かないのだろう。

未練がないかと言われれば、そうだと答えるのは嘘だった。
しかし、自身には。それでも、彼のもとへ仕え続ける術を、なにも見出すことができなかった。


少しふらつく足を引いて、ゆっくりと自室のドアを開く。

ヤグヤグはまだ探索には出ていない様子だった。
それでも、居間のどこにも姿は見えず
まだ自室の中に閉じているようだった。


あの晩から、彼と顔を合わせていなかった。
せめて、最後にと顔を合わせたかったが
その勇気も持つことができずに
内心何処かでは安堵さえしていることに気がつく。



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ハンス
「…………ムロジャフ博士。
少々、暇を頂きます……。」


荷物を引いて小屋を出る最後に、誰もいない部屋にそう、声を落として深く頭を下げた。

ドアを閉める直前
「今までお世話になりました」とそう、声が出かかって
最後の未練が、それをせき止めた。


古びて薄い、粗末な扉の閉じる音がまるで大きな鉄扉の音のように、重たかった。


ドアノブからゆっくりと、ゆっくりと手を離すと
見慣れた小屋から背を向けた。







────ハンス・ルドルフは。

特別名のあるような訳ではないが
ある程度の裕福な家庭の生まれの子だった。

学徒の課程を終了してほぼ同時、両親の反対を振り切って家を飛び出したのは
親との仲が悪かったからという訳ではない。

むしろ、いうなればその逆と言えた。

小さな頃から両手に余るほどの愛を注がれて育ち
何も不自由なく学を与えられた子だった。

子供思いの両親と、孝行者の一人息子。
傍から見れば、さぞかし暖かな図式だった事だろう。


彼を包み込むその愛情は羽布団の様に厚く柔らかかったが
きっと、その中には白い羽ではなく、鉛が詰められていたのをハンスは感じていた。


不自由なく生きるためと
学ぶものを限られ
言葉を正されて
懇意にする仲を決められ
行いを直されて
進む先の計を諭されて

同じ歳の友人が離れた場所へ一人部屋を借りる頃になっても
まるで手元に置き管理されるようにそれを静かに抑制された。


美しく咲くダリアの為に道を矯正する支柱の様に。
道の先を外れないために添えた地図のように。
その愛情がやけに重たくのしかかることへ、声に満たない喉の奥で恐怖を抱えていた。

教えに背かなければきっと、少なくとも今よりもよい職についていたかもしれない。
雨や風に左右されることもなく平穏に季が流れて。
その内には、化粧縁に入れられて、伴侶の写真が届くのだろう。

何一つ不自由のない、模範的で幸福な暮らしぶり。
安定した幸福を、静かに、穏やかに、それから重たく、強いられていた。


花で言うなら、野花が好きだ。
品評会で色を並べるダリアの花よりも。

枝を支えられずとも太陽を向いて咲く雛菊が。
綿毛を飛ばしてどこへでも飛んで行けるたんぽぽが。

きっと、誰かに言えば笑われ、蔑まれただろう。
だけど、それでも良かった。

世間知らずと笑われながら
いくつも、いくつも馬鹿にされ。
雨水や泥に汚れながら
ずっと、自分の足で、立ってみたかった。


地図がなくても歩けることを
誰かに示してみたかった。
自身のみで選び、信じたその道が、きっと正しくあるその事を
誰かに示してみたかった。


それが、きっと人に言えば笑われる
彼が表に明かしのしない
しかし確かな、願いだった。





しかし。




港について、息をつく。
拠点に借りた小屋から遠く、街に降りた浜につくのは
この海から離れる為の渡しの客船。

乗船客の列に立ち並ぶ自身に
その願いは、叶わないことだったのだろうかと失意に似て浮かべる。

ただ、1人の支えとなることさえ、届きはしなかった。

所詮自分は籠の中で生まれた鳥で
外で生きることは出来ないのだろうか。

そう考えながら、列を満たす喧騒に耳を塞ぐ。





気分が、悪かった。




何処かに残されたままの未練がそうさせるのかと
気を紛らわそうとしていたが、
意識が徐々に霧の中に溶けていく。


気がつけば浜に寝かされていたあの時からずっと
意識の靄が晴れないままでいた。


喉の奥に、海水の腐った臭いがしていた。
それは、古くなった血液のような
死んで間の空いた魚の様な
拭いきれず不快な感覚。


それが、いつまでも喉の奥に仕えているような気がしていた。


どうにかここまで運んできた足が震える。
首の後ろから血の巡りが絶えたように
指の先が冷えて震える。

気分が、悪かった。

列の中で船が出るまではもう少しだと
何度も自身に言い聞かせた言葉の効力が
今に切れようとしていることを感じた。


誰かが、肩に手をかける。

よほどに白い顔をしていたのだろうか。
身を案じる声に、どうにか平気だと言葉を返そうとして


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ハンス
「──っ……!!…………っ!!!」


胃の痙攣に強か内容物を吐き戻す。


小さく港に悲鳴が上がった。



しまったと、心の遠くで思い
喉を抜けたそれに目を落とせば

泥のように濁り溜まる赤い体液が地を濡らしていた。


遠くで女性の悲鳴が聞こえる。
肩を揺する誰かの声が耳に届けば
自身が頬を地に着けて横たわっている事に気がついた。


人のざわめきが幾重に反響して
不明瞭な雑音として聴覚を覆った。

何が起きているか、想像する気力さえも無かった。



波の音がしていた。

そこに、悲しげな声がする。


うるさいほどに唸る波の向こうから届く
笛のように高く、濡れた叫びは
まるで、深い海から自身を呼び誘うように鳴っていた。

聴覚の奥に幾度も響き、やまないその声は

いつかに聞いた、人魚の声にとてもよく似ていた。





──どこか遠くから、人魚の呼び声がする。


波の音と人魚の声に包まれたまま

意識は霧のようにして溶けていった。






  • 最終更新:2018-03-04 12:36:20

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