DAY35



──きっと、あの時に
ナイフか、と彼は思ったのだろう。




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「…………。」


こぽり、こぽりと上がる薄緑の光に浮かぶ泡。

蒼の底で透いた鰭をなびかせながら
また、いつものように
だけど、いつもより確かに遠くの思いが胸に戻る。




──あれは、種族にとって重要とされる儀礼の日だった。


雪深くの秘族のジャゴジャゴの年俸祭の日。
種族の祖とされる龍の元へ種族を納める三つの家の代継ぎをする礼式の場。


  ──お前を今日まで育てたのもこの日の為のことだ


と、礼式のその前にそう、
彼の父親がうつむくままの彼に言い聞かすのを私は見ていた。


やがて礼式が始まれば私を含んだ家の代継ぎの子の三人が、儀礼の壇に上がって一人ずつ、
杯に白い真珠を落として呪を唱える事になっていた。

初めに並んだのは、彼だった。
用意された供物を持つ手を震わせ黙っていた彼に
急かすようにして礼式の型を促す声がした。

  ──こんな物が。

噛み締めていた唇が、震える吐息を零して。

それから、せきをきったようにして彼は
祭壇の式具をなぎ払い、震える声で、やにわに空気を裂いて大きく叫んだ




  ──こんな物、こんな事をして、一体何になる!
    意味なんて、何もありはしない!
    龍なんて、この世にいない事くらい、知っているはずだろ!
    龍なんてものが、どこへ居るはずがあるものか!!──


その後の混乱は、大きなものだった。
私はだだその場にいて、立ち尽くすしかできなくて
司祭の女性に手を引かれながら祭壇から降りて、私が見たのは
種祖を否定し礼を汚した彼が
まだ暴れ、大人たちに取り抑えられるその姿と

彼を殴りつけた、その父の姿だった。



騒ぎの後。
その年の代継ぎの礼式は、行われなかったことになっていた。

三つの家のうちの一つから、
代継ぎの子が、生まれなかったことになったから。



隣室で両親が話すのを聞いたには
あの子は、村を追放されることになったという。

死罪を下されなかったのは
仮にも納めの家の子だった事による減刑。


それでも。

村の外は、世界がそこで終わり、尽きた様に
雪と氷に閉ざされていた。

人里を追われる事が意味をするのは
死罪とも何ら変わらない処罰の重み。




彼が外へと連れられたのは
雪の強く振る晩だった。

誰に見送られることも無く
誰の目に触れることも無く

執行人がそりを引いて村を離れる。


彼を連れる執行人の帯には
これ見よがしに薄く汚れた刃が添えられていた。


それが意味をする所を、納めの家の彼は知っていた。



村を追放されれば、いずれ雪の中にその息を絶やすのは逃れる事のできない事実。
しかし、身体に宿る温度が凍えに消えて断たれるまでは、決して短い時ではない。
それは、万に一つも村の外に離された者が里を離れて永らえ、
種族の秘を外部へと漏らさないようにする意味も含んではいたが、
追放を言い渡されるものへと、ただひとつ与えられる最後の慈悲だった。



くだらない雪の覆う世界の中で自身の最期を告げるそれは
なんとつまらないものだろうかと、思ったことに違いない。


人の立ち入りなどしない深くの場所まで、彼を乗せたソリは進んだ。

一面を塗りつぶして覆う殺風景な雪の景色はしかし、きれいだと、そう思う。
雪に覆い隠されれば、見たくないものが見えなくなるから。


やがてソリの止まったそこにはきっと
解けない雪が醜いものを、いくつも隠していたのだろう。



止まったソリの上で
同乗の者に目をやる気配もなく遠くを曇って見つめていた彼が

その身に降ろされるはずのナイフで、後ろ手にくくられた縄を切られて
一体、何を感じただろう。

縁を薄紅に染めながらまるく開いた瞳が、処刑の者を振り向いて
マスクを外した私を見つけた時に、彼はさぞ驚いたことだろう──

刑の下されるのは、夜が明けて日が出てからだと、話を聞いたから
晩のうちに、執行人を装ってソリを出し、彼を小屋から連れ出した。




  ──どうして。


きっと、どう声を出したらいいか、わからなかったのに違いない。
揺れて、細く裏返る声がそう言った。


  ──逃げよう。

降りしきる雪の中で、それから彼にそう言った。


  ──今なら、雪が足跡も隠してくれる。
    ここを下ってしばらく、氷の川が外の海へと通じてる。
    船なら、そこにあるのを知っている。だから。




信じることが出来ないように、うろたえる彼に、続けた


  ──あのとき、教えてくれたでしょう。
    私ね、そこに行ってみたいの。

    虹色に輝く空に
    飴色に染まる湖。
    七色を持つ鳥の歌に
    絵具を散らしたような色の魚たちと
    彼らの泳ぐ暖かな海。

    春の芽吹きに、夏のまぶしさ。
    秋の実りに、冬の星空。
    私ね、それを見てみたい。


    触れても冷たくない水の流れるそこに、行ってみたい。

    寒くて、震えて、凍えてしまうこんな雪ばかりの景色じゃなくて
    いろんな場所へと行ってみたい。

    あなたとなら、それができるような気がしているの。

    生きる方法が分からなくなる時は
    だけど貴方はひとりじゃない。私がきっと、教えてあげる。

    だから





  ──ムロジャフ。
    ここから逃げ出そう。
    貴方と、どこまでも世界を旅してみたいの。

    きっと、私たちもう、これからは何処へだってゆけるもの──






──こぽり、
ほの暗い海の底から泡があがった。

春のように鮮明に思い浮かんだ記憶に
いくつも小さく泡を吐く。



ずっと、思い出せなかったそれを今、はっきりと思い出した。

ひとりぼっち、背を丸める小さい彼が誰なのか

船の上で悲しい瞳で自分を呼ぶ彼が誰なのか

すべて、すべて、はっきりと。




だけど。


ぴぃ、と小さく笛のように喉が鳴る。


だけど、違う。




それは、私の記憶じゃない。
彼に微笑みかけたのは
この記憶の持ち主の「彼女」は、自分じゃない。

だって
最初に食べた、あの「さかな」。

海の底、船の中に沈む彼女を
私は食べてしまったから。


思い鮮明に浮かぶ記憶も、こころも。
これは、私のものじゃない。

だって、わたしは────




ぴぃ、と高く響く声が
海の中に遠く響き渡った。






  • 最終更新:2018-03-22 19:35:57

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