DAY38


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ハンス
「──……っ!!…… …………っっ」




──荒れる波間に顔を出し、むせこみながらもようやくに息を吸い込む。


黒く渦を巻く波の隙間から見えた空には、世界が抜け落ちたように
ただ厚い闇だけが広がっていた。




きっと、悪い夢を見ているのに違いない。




底の見えない深い海のうねりに幾度となく揉まれ
水面に顔を出したと思えば、そのそばから
細く長い髪が足に絡まるようにして身体が水流に引きずり込まれ
また、意識ごと海中に沈んでゆく。



荒れる波に翻弄されてぐるりと体が回り水底を向けば
ほの暗く薄緑色をにじませる蛍のような灯りの群れが、
クジラの尾ひれをした巨大な人魚を照らしていた。

揺蕩うようにして沈む巨大な影には、しかし、顔がなかった。
ふやけたように膨れた、顔のない表情が
水底からただじっとこちらを見つめている。



曖昧に広げた両手で自身が波に沈み、落ちて来るのを待つ人魚の
誘うのが恐ろしく思えたのは
その懐がやけなほどに優しく暖かいものに思えたから。


まるで聖母のように慈悲深く、その両腕に安寧を湛えているように思えたから。


見渡す限りに暗くうねる荒波の中で
幾度も伸ばした指先が虚空のほかを掴む気配が、まるでなかった。

いつまでこうしてもがき続ければよいのか、果てを見ることが
自身には出来なかった。


優しく誘う人魚の元に体を委ねれば
きっと、疲れ果て倒れ込む毛布のように自身を深く受け入れて
安らぎの底深くまで包み込まれて落ちてゆけるのに違いない。


そう思うからこそ
それが、恐ろしくてたまらなかった。



きっと、悪い夢を見ているのに違いない。
いつかは覚めて忘れてしまうだけの悪夢だと
いくつも、いくつも言い聞かせて
また、波に揉まれる苦しみから逃れようと水を掻く。


しかし、これは
一体、何時に覚める夢なのだろう。



波の隙間から、息を吸い込んでは、刹那
幾度となく、海の中へと沈んでいった。

悪い夢なら、早く覚めてほしい。

これが、悪い夢なのなら。


悪い、夢なのなら。



何度となく掠れそうになる意識の中で
水底から響く人魚の声だけが、やまずにいた──







────────────────────────



海風の吹きこむ港近くの診療室のベッドに運ばれた急患は
それから数日が立ってまだ目を覚ます気配がなく、ただ瞼を閉じたままそこに横たわっていた。


──患者の様子は、如何でしょうか。


側について様子を眺める医師の男に、部屋を覗きに来る看護の女性が尋ねる。


──以前、芳しくないようだ。
危篤と、通常であれば言ってもいいのだろうと思う。



──目は、覚ましそうにありませんか。


──わからない。

ただ……こんな症例は、本当に……初めて見た。
極端なほどの徐脈に、体温の低下……。
まるで、冬眠でもしているようなんだ。

私が知る限りでは、とうに人体が生命活動を維持する事のできる条件を逸している。



──冬眠、ですか。

──いや……他に言葉を例え知らないだけで、冬眠だなんてあり得る話じゃない。
人体は冬眠のように代謝を下げる生態も、それに耐える構造も持ち合わせてなど居ない。
想像にも難くなく知っている通りだろう?

しかし、彼にはそれでも確かに、息があるんだ。



──……本当のところを言うなら。
わたしには彼が、不気味に思えてならない。


──私には、彼が。

彼が確か「生きている人間」だとは、どうにも思うことができないんだ──






  • 最終更新:2018-05-17 23:00:11

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