DAY39

濡れた色をした夜闇が浜を静かに覆っていた。


吐息のように生ぬるい温度をした潮風のなかで
不規則な一人分の足音が砂を踏む。

ぼんやりと、まるで灯りに誘われる夜光虫のように。
ヤグヤグはあてもなく夜の海に足を向けていた。



それは、何かを期待した訳でもなく
特別意図を持つ訳でもなく
意識と行動が別離したような衝動だった。


ただ、そこへたどり着いてはぼんやりとして波間を向いて立ち尽くす。



重たくなる瞼の向うに覚える、意識が緩やかに回り時の遠くなるような感覚は
幼い日に浮かされた熱病に似て思えた。
曖昧な視界でじっと、軟体動物のように遅く雲が行くのを意味もなく見上げる。



執拗に繰り返す波の音に、意識の遠くでこの先にどうするべきかを考えていた。
答えを見る事が叶うはずもなく、ただ濡れた靴先が砂へと埋まる。






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ヤグヤグ
「──そこに、誰かいるのか?」



ふいに、口先を抜けて声が出る。

まるで自身ではない誰かが零した声を聞いたような、奇妙な感覚がした。




何故、自身が声を発したのか
しばらくの間、理解が及ばなかった。

自ら零したはずの声が、音の羅列から言葉に直るまでに
いくつもの間をおいてから意識に映る。



そこに誰かいるのか、と。




その言葉は、自身が波の向こう、影の方から微かな気配を感じ取った事を知らせていた。


それに気が付いて、波に濡れた足先を徐に持ち上げる。



ひとつ

またひとつ


つま先を前に出し、ゆっくりと足を向け、やがて気が付けば走り出す。





浜の終わり、岩場の陰から微かな水音が耳に届いて
波しぶきのなかで海へと落ちてゆく影が月に照らされた。


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ヤグヤグ
「待ってくれ!」



僅か見えた濡れた影に届くよう、声を絞り出す。


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ヤグヤグ
「お願いだ、待ってくれ……!」



水音を打ち付ける靴先が、そこへたどり着いた時
既にその姿は見えず、岩場にひざを折る。

打ち付ける波しぶきが頬に雫を付けて、
岩の間に取り残された潮の溜まりから月を見下ろす。



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ヤグヤグ
「……どうして。
どうして、君は幾度もそうして私を置いて行くんだ。

……待って。待ってくれ……。」



なすすべを失って、消えてゆく声をどうにか紡げば



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「──ごめんね。」


小さく上がり弾け消えてゆく泡のような声が、すぐ近い遠くから聞こえた。



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「──ごめんね……どうか、許して。」



見下ろした月が、波の雫を跳ねさせられて揺れて隠れる。
声に続いて、強く懐かしいような匂いが届いた。
項垂れたまま、瞼だけをは、として開く。


声に満たない吐息のような言葉が
しかし、確かに覚えのある音をしていたから。




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「──本当はもう、会わない方がいいって思ったの。

でもね、私……まだ、貴方に示していないことがあるから
せめてそれまでは、海に還ることが悔やまれてならなかったから──」


小さく溶けて行く言葉の紡ぎ方もが、聞き覚えのある癖そのままだった。

それから、潮溜まりの中の空の端に、翻された尾鰭の影が映りこむ。


跳ねるしぶきが水鏡を再び割って、空を乱し。
再びそこに月が円く落ちるまでの長い間をおいてから
すぐ近く、岩の上に水音がおりて滴る。



徐に顔を上げて、そちらを見上げると
透いた色をした濡れた身体が、魚の尾をゆったりとした動きでくねらせて座っていた。

やや欠損した左腕を隠すようにして彼女が上体をかがませながらこちらへと伸ばした右腕の
水を湛える透明な指先がまるで小鳥を撫でるかのように、そっと頬に這い
そのまま優しく顔をなぞって、泡のような声で唇を揺らした。



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「──ムロジャフ。
貴方には、言わないといけないから──」







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「──ごめんね……私、シスカじゃないの。」




波の音が遠く、星を攫いながらさざめいていた。







  • 最終更新:2018-05-29 21:30:56

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