DAY40


鳴き交わす鳥の声が、白く朝を告げていた。
窓の外に真新しく映る空の色を、遠くの雲に透かし見る。




朝霧が意識から抜け落ちないように
あれからまだ、頭がぼんやりとしていた。


ほんの数時間ほど前の遠い過去の記憶。

昨晩のことは、夢だったのかもしれないと幾度も思い返して
そのたびにまだ残る鮮明な感覚にそれがきっと現実だったと確認する。




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「──ごめんね……私、シスカじゃないの。」



人魚の彼女が零したその言葉は、今でも強く耳に残り思い返すことができた。



岩場に腰を掛けた言葉も、声も、匂いまでもが
シスカと同じ形をした人魚の彼女が言った
その音の意味を飲み込めず
頬を撫でられたままに自身が返した言葉達は
動揺に震わされ細かくを覚えていなかった。


いくつも待ち望んだ再会を彼女へと訴え、嘘を乞う朧を見たままの連ねた自身の言葉は恐らく
まるで、駄々をこねる幼子のそれと何をも相違をしなかったのに違いない。


それでも、人魚の彼女は自身のこぼす言葉を、声が途切れるまで遮らず
静かに耳を傾けて終わりまで聞き入れてたのを思い返す。


──ごめんね。

人魚の彼女は幾度もそう、唇を揺らした。


どれほどたってか、零す言葉の続きをついに知れず、声の果てた頃。
人魚の彼女はゆっくりと。まるで、雨に濡れ震える猫に言うかの様に
彼女自身の事と、シスカの示そうとした伝承の真意を語り落とした──






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ヤグヤグ
「──あぁ、と。」


フライパンに乗せられた割られたままの形の卵が
じゅうじゅうと焦げ付いた音を立てていることに気がついて、慌てて調理台の火を吹き消す。

ずいぶんと薄くなった卵に、うぅ、と声を漏らし髪を荒く掻く。
早くそれを皿に上げようと思って
その時、皿がどこにあるのか、知れないことに気が付いた。

まだ冷めないフライパンの熱に焦がされ続ける卵のか細い悲鳴を背に聞き。
戸棚を探りながら、また考える。





──昨晩。
彼女が語ったのは秘族とされたジャゴジャゴのその起源の事だった。
いつかの日、海より湧き出た流の事と
その流を身に孕み、堺へと封じられた種祖の母についての事柄。




種祖の母である彼女を、柱に似せて海へと捨てた、その子らはしかし
流の魔触が種族の身から消える事より、何よりも大きく
境へと放り込まれたままの彼女の帰還を望んでいたという。


ジャゴジャゴの種族は、人と龍が交わり生まれたと、そう伝わっていた。
呪力を授かり、それにより文化を得たと言う龍とは本来
いつかの時に海から吹き出た流と、彼らを侵した魔を指すものだった。

流により文化を得たとは、代継の幾重に歪んだ誤解。
彼らは流に侵されて、それまであった文化を隠し捨て、秘地へと逃げ棲み新たに生きる事を選んだ。



突如生まれた嵐に、シスカを載せた船が消えたあの日。
シスカがヤグヤグへと示した唄は
いつか閉じられた境の向こうへ落とされたままの種祖たる母を
再び迎える日の為に遺された言葉だったのだという。

いつか、遠くの時が経ち。
種族の身に落ちた魔触が子供達の身から薄れ、流を制御する知をその子らが見つける時。
その日が来た時の為に、堺へと残し置いた彼女を迎えるために記された
流の境を開く呪式の節だったのだと言った。


再び、流の境を開くことへの禁忌と
種祖の願ったはかない希望。

その二つの念の交わりにあった言葉の節は
ジャゴジャゴの子らが代を継ぎ、種族の教えが呪力と共に薄れ
元来の意味をなくしてしばらくの間に「最願を叶う為の言葉」として歪められ
禁忌を孕み、祈りをかなえる言葉の節と、そう伝わったのだという。





シスカは、最後の航海にそれを示そうとし、その途中に流へ飲まれ、術式は不完全のままに止められた。
彼女の綴った術式の続きを、ヤグヤグは幾度も試し紡ぎ、やがて

再会を、と。

そう願った言葉が、まるで種祖の願いが歪み伝承されたのと同じように意図を違えて境を開き
術式の続きを叶えてしまった。

再び解かれた異界の流は海へと沈んだシスカの、胎の子を侵したのだと
そう言った。


まるで遠いような理を聞かされて。
岩場に腰掛ける彼女がやがて語りを終えてもまだ
言葉の端までに理解が及び行かなかった。

ただ
帰らなければならないと、そう呟いて海へと身をひるがえす彼女を見れば
別れを受け入れる事が出来ず、思わず細いその腕をつかみ引き止めた──





──戸棚から漸くに探し当てた皿を台に置くと、
やや干からびた卵の裏へフォークを数回潜らせて、フライパンから削るようにしてそこに上げる。
皿に乗せられた卵の、固くなった縁をフォークでめくり、
焼き目と呼ぶのにはあまりに黒い底面をいくらか眺めて。
しかし、まだ食べられると胸を張る。

昨晩の事を順に思い返しながら、なにか。まるで一つの物語が節目を終えたような感覚を覚えていたその訳は

海へ去り消えようとする人魚の彼女へ別れを拒否したその時に
そっと頬を撫でながら、人魚の彼女から優しく重ねられた唇にしかし
温度がまるで、無かったから。

まるで、たった今初めて知った事かのように。
童話の主人公が、それを合図に魔術をとかれるそのように。
その時、ようやく気が付いた。



──彼女は、
シスカは既にもう、ここには居ないのだという事に──




人魚の彼女は、自身の頬に添えた指を離すと
声に満たない、泡の溶けるような音で何かを静かに呟いて
そのまま、溶けて泡になってしまったように、その姿は夜の海の底へと消えていった。




──酷く不器用な朝食をテーブルに置いて、だれも居ない部屋の中央で、ゆっくりとそれを口へと運ぶ。
いびつに焦げ付いた、殻を割れた形のままの卵焼きに
乱暴に千切っただけのパンを添えた粗末なそれは
決して質の良い食事とは言えないものだったが、
いつの時振りか、食事に味を感じた心地がした。

昨晩に起きた事を同時に咀嚼するように
皿の上の朝食を飲み下し、最後の一口を多めに添えた水と共に流して
すこしの間ぼんやりと窓の外を眺めてみる。


人魚の彼女がまるで泡になるように海へと姿を消した最後
波に紛れて耳にまで届かなかった音の唇の軌道をそっと真似してみれば



さようなら おとうさん
と。


そう、言っていたような気がした。







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ヤグヤグ
「──……あぁ、さて。」


次の動作の合図にするようにしてため息をひとつ吐き出して
指先に残ったパンくずを払うと、台に両手をつき立ち上がる。



今朝は少しばかり寝過ごしたのだ。
もうじき、探査に出かける待合の時間になる。

壁に打ち付けられた釘に引っ掛けた外套を引き寄せ袖を通し、
潮の染みて古びたドアに手をかける。

部屋を出る前に一度、部屋の中を振り返る。


食事を終えたままの皿は、比べればほんの些細。
転がったままの酒瓶に、引き倒された資料の束らの、散らかり切った部屋を見て




明日には部屋を片そう


そう、思いながら扉を閉じた。







  • 最終更新:2018-06-17 10:57:09

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