DAY44


陽の強さが雲を低くに払い積んで、青く透き通る夏の季節の日の中の事。


バスケットに昼食を入れ、浜辺の近くに簡素なチェアを持ち出し
木漏れ日の下へと、助手の男と共に腰をかける。


ひどく緩やかな昼の隙間に落とされて頬張るサンドイッチが
不服なほどに舌に心地よかった。



その様子をちらりと見ては、助手の男はどこかで勝ち誇ったように
しかし、穏やかにほほ笑んで言う。

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ハンス
「ほら、ですから。
こうして昼食を採るのも、悪くない事だと申し上げたでしょう?」





──この日、天気がいいのだからたまにはこうして外で過ごそうと。
そう誘いかけたのは助手の男だった。

元より断るつもりしかなかったはずだが、
すでに昼食が詰められたバスケットがテーブルに置かれているのを見ては、
それを断ることにいくらかのためらいが生じた。

元より、悪くはないかもしれないと思ったせいもあっただろう。
僅か生じたその隙に、うまい事漬け込まれてしまったというのが事の顛末だ。




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ヤグヤグ
「……なにもこうして昼食を採るのが嫌だと言った訳ではないよ。
ただ、そうする相手は選ぶという事だ。」



そう、一口の憎まれごとを言いながら波の音と運ばれる風に遠くを見る。



たった数日ほど前の事であり、まるで幾数年も昔のような遠い出来事。
この海で見た人魚が泡のように海へと溶けて消えて、あの日から
まるで、いつか昔の嵐のあの日以来ぽっかりと抜け落ち眠っていた時計の針が
ふと思い出して再び刻み始めたかのように、唐突で、穏やかな"日常"のその中にヤグヤグはぽつりと居た。



ただ静かに流れてゆく雲と時の流れの中に、海鳥の遠鳴が滲み空の青さを透かし
いやに遠い何処かの景色を映しているような奇妙な心地がして黙り込む。



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ハンス
「如何なさいましたか?」



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ヤグヤグ
「ああ、いや。
……なんと言おうか。こうして穏やかに過ごしていると
それがなにか、ひどく奇妙な物のような感覚がしてならんのだ。
懐かしいとでも言おうか……そんな感覚なのかもしれない。」


声をかけられて、うまく表せない事を、独り言のように呟き返す。



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ハンス
「ああ。なるほど、それはつまり……」

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ハンス
「──私が小屋を離れていた時間が、それほど長いもののように思えていた……
と、そう言う事でしょうか?」



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ヤグヤグ
「やめんか、気色の悪い男め。」

それから、助手の男が軽い口調で返す言葉にはそう、眉をひそめて吐き捨てた。



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ヤグヤグ
「……ハンス。この小屋に戻ってきてからと言うものだ。
お前は一体何があってそういう下らん口を利くようになったのだ。」


飽きれたように、半ば責めるような風にして彼に問を掛ければ
助手の男は、まるで問われることが解っていたことのように穏やかな口調で言葉を返す。


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ハンス
「いいえ。変わったのは私ではありません。
ムロジャフ博士……あなたが今までにはなかったように、明るい表情をなさるから。
私はこうして、冗談が言えるのですよ。」


そう言われ、思わず自身の表情を探るように口元を撫でる。
引きつらせるように横に結んだ口元の隆起を、指でなぞりながら
何か決まりの悪い気がして、顔をそらした。


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ヤグヤグ
「……そう言うもの、だろうか?」



ふふ、と背に聞く微かな笑いに
つまらないと言ったように、ハンスからは見えないよう唇を尖らせた。
癪に障る、と負け惜しみのように捨てる言葉は、結んだ唇からはしかし、こぼれなかった。



続ける話題に迷い、再び遠くの空を見る。
なにか言葉を続けようかといくらか思ううちに耳に届く波音と、潮風にさざめく葉の音に
やがて、それも必要はないのだろうと瞼を閉じる。
手元につまんだサンドイッチの残りを口腔に放り込み、それを飲み込んでしばらく。
胸を膨らませるようにして吸い込んだ空気の中に、ふと思い出すようにして
先ほど口にした懐かしさに似た何かに気が付いたような気がした。



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ヤグヤグ
「……ああ、そうだ。
奇妙な感覚というのは、そう。例えるなら──。
なにか、匂いのような感覚に近いのかもしれない。」


顔をそむけたまま呟いた言葉の後。
波がふたつほど寄せて鳴り。
隣で小さく笑うような息遣いが聞こえた。


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ハンス
「……やはり、わかりますか?
チーズケーキを焼いてきたんですよ。
ムロジャフ博士の好物ですから……。」



バスケットを探る音に振り向けば、助手の男がそこに敷かれていた布をめくり
小さな包みを取り出すのが目に入る。


ふわりと届くチーズとバニラの仄かな香り。
それはまた、懐かしいと呼べるものであったのは確か。
その事に、先ほど感じたかもしれない感覚は、上塗りされるようにしてかき消された。



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ヤグヤグ
「…………ああ。」



チーズケーキの香りに思わず眉を上げているのに気が付いて、
自身は今きっと、彼の言う”明るい表情”をしているのだろうか、と遠くで思った。




木漏れ日に濾された高い日差しと、優しく頬を撫でる潮風の柔らか。




波の鼓動と共にやけに緩やかに過ぎて行く穏やかな時間はしかし、
ひどく奇妙な物であるのにきっと違いなかった。


それでも、昼の木陰にはただ、和やかな時が悠然として横たわっているのだった。




  • 次の日誌……まだよ


  • 最終更新:2018-08-01 22:28:27

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