DAY5

窓から入り込む朝の明かりが、深い海に差す陽の揺らぎに似ていた。

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ヤグヤグ
「……。」

染み付いた潮の風と饐えた埃の匂いが立ち込める、使い古された漁師小屋に借りた自室。
古びて軋むベッドの上で目を覚ます。

――どうやら、気の付かないうちに眠っていたらしい。
違う、おそらくはいつものように、酔いつぶれてここへ寝かされたのだろう。


そこに意識があると気が付くと同時、胸の底からこみ上げる不快感と
脳梁にこびりつく酔いの跡が視界を揺さぶり、頭を締め付ける。

深く眠りから引き揚げられた、まるで網にかかった深海魚のような心地だった。
泥で満たされた体を引きずり、ベッドを抜けて自室から出る。



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ハンス
「――ムロジャフ博士、目が覚めましたか。」

ドアの開く音に振り返り、助手の男が静かに言った。

部屋の隅、まるで突然思い出し取りつけたかのようなままごとのように小さな調理台へ立ち、
彼は朝食の用意をしている様子だった。

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ハンス
「お具合はいかがでしょうか。……昨晩はひどく酔っておりました。
今朝にその様子であれば、本日は海に出るのも
お控えになった方がよろしいのではないでしょうか。」

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ヤグヤグ「……うるさい。」
柔らかく語り掛ける言葉を煙たげにして、作業台の椅子まで付く。

助手の男は、彼がそこで再び力尽きるように重たい頭を両手で支え
まるで昨晩と同じように項垂れるまでを見届けると、しばらくの間会話を止んだ。

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ハンス「ムロジャフ博士。」

やがて、ぽつりとつぶやくようにして口を開く。

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ハンス「……ムロジャフ博士は、この海へ何を求めにおいでになったのですか。
この地の探索と、研究の為とそういうおっしゃっておりましたが……。」

そこまで問い、再び言葉を止んだ。


――また、つまらない事を聞かれる。
その手の事を聞かれるのは内心うんざりとしていた。

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ヤグヤグ「……妻が憧れていた、からだ。」

しかし、どうせ今には知れたことだった。
今更隠すこともないと。そう思い静かに答える。

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ヤグヤグ
「――西の禁忌海域の続き、誰も踏破しえなかった先の海。
そこがここへと続いていると風の噂にそう聞いた。

彼女が最後、目指した海だった――」

そこまで続けて、胸の底が不快に疼いた。

それが残った酔いのせいか、その話題への嫌悪か、両方か。
次第に指先が震え、荒むような感情の乱れを覚える。

そのままに声を荒らげることを抑えるのは、
しかし気分の重さに潰されて難しい事ではなかった。

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ヤグヤグ
「私は。……妻さえいてくれさえすれば
この世界に他望むものなど何もなかった。
今までの私の研究も……私の種の祖たる文化の探求も。
すべて、元は彼女が知りたいと願ったからだ。

……今では、私自身。何故ここへ足を踏み入れたのかもはっきりとはせん。」

それでも続き吐き出すのは、まるで未熟な恨み言。


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ヤグヤグ「海は非情だ。妻さえいれば何も望まなかったと、それなのに。
この海は妻を攫い世界だけを私の元に置き残した。
こんな海に、空に、いまや何の価値もありはしないよ。」

擦れた声で。

憎まれ口のように吐き捨てるのは

何処か助けを求める言葉に似ていた。


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ハンス「……。
博士の昔の記事に名を知っています。同郷の、シスカ博士……
行方を絶たれた奥様の事ですね。」

まるで知れたことを、繰り返すようにしてゆっくりと尋ねる。
作業台に項垂れる男にとって、その存在がどれほど多くを占めていたかは
今日の態度に見るまでにもなかった。

かつての海洋学士がその姿を失い、
そうして項垂れる様が助手の男には痛々しかったに違いない。

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ハンス
「……私が側へ仕えるほどでは、貴方の喪失を埋めるに足りませんか。」


――やがて続けたのは、そんな、言葉だった。

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ヤグヤグ
「……は。」

助手の男が問いかけた言葉に、心底意表を突かれた心地だった。

間抜けな猫のようにぽか、と開いた口から、素っ頓狂に声が落ちる。
彼の放った言葉がいくらも遅れて脳裏に落ちて、呆れたように息を吐く。
乾いた吐息を数度吐き出し、消沈したようには、は、と笑った。

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ヤグヤグ「……笑わせるな。」
台を叩きつける気も、起きなかった。


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ハンス
「……そうですか。」

そう捨てた言葉に、助手の男はただ静かに微笑んでいた。
やがて、彼が調理台を離れ、振り返る。
底の深い木皿に少量、白色をしたスープを取りヤグヤグの前へと差し出した。

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ハンス
「大根のポタージュです。二日酔いに効果がありますから。」

ふわりと立ち上る湯気が、優しい暖かさを含み鼻を撫でる。

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ヤグヤグ
「……。いらん。」
その香りに表情一つ歪ませて、指先で器を遠くへ押しやる。

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ヤグヤグ
「お前がそうして作る料理が、気に入らない。」
憎まれ口の、一つを添えて。

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ハンス
「ああ、それは。何故です。」

尋ねる彼に、煙たい空気を払うようにして
かすれた声で小さく答えた。


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ヤグヤグ
「……ひどく、懐かしいような心地になる。そうすれば、その分だけ私は惨めだ。」

言い訳のようにして、そう云った。


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ハンス
「……そう、ですか。」

――助手の男はただ、静かに彼の側にいた。




  • 最終更新:2017-01-15 03:56:52

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