DAY6

「――本当にここへ君の言うものが有るのかい。」

突き出すように高い鼻をした男が、
隣に立ち水平を見るよく似た特徴の女性に一言問う。


風は凪ぎ、微かな波の音が静寂よりも青く横たわる夜の海
波間に揺蕩う月明かりが不気味なほどに穏やかだった。
少ない乗り組みを連れて、
二人は禁忌海域と呼ばれるその先へと船を出す。


「……ええ、きっと。
私たちの種に言われる伝承。それから、貴方が否定する事。」

羅針盤から目を離し遠くの波と風を頼りに彼女が舟を出したのは、
二人の卿と種族、その伝承の証明の為と言っていた。

高く特徴的な鼻と、袋状に伸びた長い耳。
人と特徴を同じくし、人と特徴を違えるジャゴジャゴと呼ばれる少数種族。

彼らの文明は祖に龍を持ち、
龍より授かった魔力により構築されたと言われていた。
しかし、今にそれを神話の他で示す物や痕跡はひとつとして無く、
その話は信仰の中にのみ生きる事柄。
男はそれを否定し、彼女はそれを肯定していた。

月の夜、彼女はその真否――あるいはそれが全くの神話でない事――
を示そうと、海へと誘い出したのだ。


男は航海の前に彼女の示した海図を広げて、星を見て方角を図る。

「……海図の座標から随分と離れている。」

白く息を漏らしながら不安気に尋ねると、
真剣な瞳のままに彼女が答えた。


「流動しているの。その座標は場所や地域を示した物じゃない。
波の速さ、気候に、温度。私の家の伝えの通りなら、今は少しずつ沖へ向かう。」

「流動している……なんて。
それは。」

「そう。きっと、生き物みたいに。」

そう答えた彼女の横顔が、どこかやつれていて見えた。

やがて、舟が止まる。
見渡す水平に陸は遠く消え、
夜影の詰まったバケツを打ち広げた様に何も見えなかった。
彼女は舟の明かりを消すと、懐から古ぼけた装丁の本を取り出し
そこに書かれた文字をなぞり、唱える。


「……それは、ジャゴジャゴの古くの言葉かい。」

訪ねた彼に答えを返さずに、小さく目をつむり肯定としながら
何処の国とも特徴を違える奇妙な吐息の発音の言葉を海へ向け囁き落とす。



彼女がなぞるその言葉は、静か海へと唄うように。
その言葉は静か誰かを呼ぶように。
その言葉は静か祈り称えるように。
繰り返し、何度も繰り返し響いた。



やがて古く擦れたページが数枚めくられ、ふいに寒空にぬるい風が吹いた。
静かに響く波の音が小さく泡立つようにざわめき、男は水面をのぞき込む。

何処までも青く、暗い水の底から。微かな明かりが差すのを見た。
それはため息のように儚げに薄く、蛍によく似た光の群れ。
淡い光は水面に到達すると溶けて消えて、その度に海を揺らした。



――波が、荒れてきた。


言葉を紡ぐ彼女が、その様子に気が付く。
決心のように細く息を吐きだすと、小さな袋に入った装飾を海に落とす。

黒く小さなビーズのようなそれは、黒真珠のようだった。
それが水面に落ちると、小さくはじけるような音をたてながら沈み波が荒れる。
徐々に様相を変える海の様子を気に留めず、彼女は言葉を紡ぎ続けた。


「……シスカ。」

不安になり、彼女の名を呼びかける。

穏やかだった海はいつしかうねりを上げ激しく波を打ちはじめていた。
前触れなく嵐が今ここに生まれ落ちたように突如として風を巻く。

乗り組みの誰かが、引き戻すようにと声をあげた。


空が高く叫びをあげ飛沫を巻き上げ襲ってなお
囁きを止まぬ彼女の肩を掴もうと手を伸ばしかけた時。
海の深く、ほの明かりの底へクジラの尾が影となり見えた。

違う。
クジラではない。

尾の対、胴はまるで
人の形によく似ていた。


「きゃあっ――!」

にわかに、高波が船を覆った。
甲板を黒い水が攫い、身を押し流す。
決して小さくはないはずの船体が、いとも軽く傾く。


「――っ!!」

体を覆う深い夜影に気が付いたとき、すでに海へと放り出された後だった。
聴覚を支配する波の猛りの隙間から、甲板の軋む音がやけに響く。
もがきながら、どうにか水面に顔を出せば

飛び込み見えた光景に、唖然とした。

波が激しく渦巻き、海に穴を空けんと口を開いていた。
船がまるで紙細工のように、その渦へ流されて呑まれようとしているのを見た。

「シスカ!!」

慌て、彼女の姿を探す。
荒波と船の破片の中に一度だけその姿を見つけ、必死に手を伸ばす。

「――シスカ!」

のばした指先が、彼女に触れることはなかった。

「――――……!!」

激しい渦潮の中、しかし飲み込まれるのは船と、そこに残された彼女だけ。
水流はまるで彼を引きはがし、拒絶する様に体を遠くへ攫う。
高い波に飲み込まれ視界が夜よりも深い水に沈み。
やがて意識が彼女の姿を共に連れ遠ざかって行った。



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ヤグヤグ
「――……ッ!」
は、と息を吸い込み、目が覚める。
静かに揺れる波の中、小舟の上であおむけに月と星を眺めていた。


――夢を見たのだ。
いつかに船と、妻を海に亡くしたあの日の夢を。


凍るように澄んだ空に輝く星たちが、針のように鋭く、鮮やかに輝き瞬いていた。
星々の夜、冬空の美しさが自身を嘲り笑うように見えて、身を起こす。

小さな船の内を眺めれば明かりの消えたランプ、
装丁の擦り切れた古い本と、黒真珠の入った袋。
それから、荒々しくバツがいくつも付けられた海図が転がるように落ちている。
徐に手を伸ばし、ペンを拾い上げると、震える指先でそこへ印をつけた。



海図にまた一つ、バツ印が増えた。





  • 最終更新:2017-01-24 00:06:19

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