DAY8



「――そんなはずがあるものか。適当なふうを言うんじゃない!」



ひどく焦燥に濡れた怒号が海鳥を逃した。


「いえ、しかし。なにも見つからないのです、船の残骸も、なにも、なにも。」
探査船の乗り組みは困り果てたように伝える。


「……!…………くそ……!
もういい。貴様の様な者に頼むのが間違いだった……!」

「ムロジャフ博士……!」

悪態をつき、男はその場に背を向ける。



禁忌海域の先、突如として生まれた嵐に妻を載せた船が飲まれて消えた夜の日から。
彼の生きた日々とも呼べたそれは幾日が経てども影すらも溶けて浮かんでは来ず
ただ彼一人が残されて、なおも生き続けていた。


焦りが怒りに成り代わり、視界を失う彼の背へ
探査の者らは隠れて冷たい囁きを向ける。




床に散らばったままの器具、割れた酒瓶と破損した標本。
再びめくられることのない資料と広げられたままの挟域海図。

細い線で描かれた丸とメモ書きを塗りつぶすように
その周囲にいくつもの荒々しく描かれたバツがあった。


「ムロジャフ博士――」

頭を掻き毟り項垂れて海図に向かう男に、白衣の若い女性が声をかける。


「……うるさい。」


苛立った様子で唸るように捨てると、ペンを握る腕が震えた。


「――ムロジャフ博士……!そろそろ、お認めになってください……。
受け入れるしかないことでしょう!
シスカ博士はもう、戻っては来ないのですよ――」


喪失に我を失う彼の様子を見かねて声を絞った彼女の言葉に
ぷつりと麻糸の切れるような音が遠くに鳴った。



「――!!ムロジャフ博士……っ!
…………!」


意識を暴風が攫い視界が飛沫に霞む。
荒れる海の高波の隙間からかすかに聞こえる彼女の声が途切れた。



「―― ……、ああっ」

理性が戻り夜霧が晴れたとき、ぐたりと抵抗を止む彼女にはとして気が付き手を離す。
白衣の女性の細く柔らかい首を絞め落とさん限りに掴み潰す自身の両腕に気が付き
指を解いて彼女を抱えた。




幸いに、大事には至らなかった。
彼女は医院に担がれたが、たっての希望でその事は騒ぎにされることもなかった。

そのはずだった。


「――あの男は、妻を亡くして狂ってしまったんだ。」


婦女暴行と、風にめくられる薄紙は鯨の尾鰭を靡かせ言った。

それを告げたのが彼女自身か、それとも障子に開いた穴だったのか。
どこからか泳いで抜けた騒動は、安価なゴシップに腰を落ち着けた。


「――よせよ、係わるなって。」


男にはそれなりに名があった。まだ若く、奇抜な着眼を唱える彼を、若さを、功績を。
よく思わないものは一定あった。


「――だけど、彼もかわいそう、よね。」


そうでなくとも、男の不幸と没落はティータイムの空腹を満たすには
十分に人々の好奇を攫った。


「――嫌だ。汚らわしい。」


足を陽に向ければ、背に刺さる声は、冷たい。



「――憐れな男だよ、あいつは。」



そうしていつか、人々の声に、耳を塞いだ。









――また、固く粗末なベッドに目が覚める。

確かめるように数回ほど息を吸うと、傍らにつき瞼を落とす助手の姿に気がついた。


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ハンス
「……ああ、ムロジャフ博士……
よかった。気が付かれましたか。」

寝息に揺れる声を震わせて、こちらに気がついた彼が安堵を吐き出す。



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ハンス
「溺れたのですよ。
スキルストーン……でしたね。
それによりここへ戻されたのだそうです。」


眉を動かさずに、しかし続ける言葉の奥に吐息が震えていた。

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ハンス
「……。あまり無茶をなさらないでください。
この海はまだ解明に浅く、未知見の危機が伴うものだと耳にも痛く聞き及びます……。」



まだ晴れない感覚の霧に、仰向けのまま窓を見る。
海はそれでも穏やかに、青い吐息をたたえて潮の香りを運んでいた。


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ヤグヤグ
「…………すまない。」

返す言葉に思い当たらず、小さく零した言葉がひどく気弱だった。



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ヤグヤグ
「――すこし、休むよ。」


そうとようやくにつぶやいて、束の間の微睡みに意識を手放す。
鼻腔の奥深く、嵐に消えた彼女の香りを微かに残して。





  • 最終更新:2017-02-11 01:09:57

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